名古屋市上下水道局

し尿処理の解決策を求めて~下水道創設期の悪戦苦闘~

最終更新日:2022年04月01日

 し尿は、古くから肥料として使われており、明治時代に入っても都市から発生するものは、周辺農民が作物やお金などを謝礼に汲み取っていました。この有価物としてのし尿に目をつけた名古屋市では、その処分を市営化することで市収入の増加をはかることを計画しました。当時の汚物掃除法ではし尿処理は、市の汚物処理の義務からはずされていたのですが、市では国に働きかけて名古屋市のみの特例として市営処分を認めさせ、明治45(1912)年から請負人を介して農民から汲取り料金を取る市営し尿処理を開始しました。

 ところが、大正時代に入ると、市周辺の都市化による農地の減少や化学肥料の普及によりし尿の肥料としての需要が低下する一方で、人件費が高騰し、しだいに汲取りが滞ってきました。

 市では、対策として、汲取りを大正11(1922)年には全面的に市の直営とし、一部は近郊農民に無償での汲取りを認めるとともに、一部を市営硫安工場で硫安加工に回し、大半は海中投棄とすることとしました。

 しかし、硫安工場は操業不振、ついには焼失し、海中投棄も、投棄したし尿が魚網や漁獲物に付着するなどの問題が発生し、漁民から猛烈な抗議が相次ぎました。投棄地点は、遠方へとたびたび変更したのですが、問題の解決には至りませんでした。

 当時し尿は水田であまり利用されていませんでしたが、ちょうどその頃水田で利用した場合の害虫駆除の効果が実験で確認できたため、市では、海中投棄の問題の打開策として、周辺の農業団体にし尿を無償で交付することとし、海中投棄の量をかなり減らすことができました。しかし、それでも海中投棄の全量をさばけたわけではなく、大正15(1926)年からは、浄化槽を併設した貯留施設を経てし尿の下水道への投入を開始します。

 当時は、集めた下水を処理せずに、そのまま川へ放流していたので、そこにし尿が加わることになり、放流先である堀川と新堀川の汚染がさらに深刻化しました。
 こうした中で、し尿流注所(し尿処分施設)と堀留・熱田の両下水処理場を建設し、根本解決を図ることになりました。

 
し尿運搬船
 新堀川の堀留(現在の堀留水処理センター付近)に繋留されているし尿運搬船。
 数隻の運搬船が曳き舟に曳航され、目的地点に達すると船倉の栓を抜いてし尿を投棄しました。