名古屋市上下水道局

分流式から合流式へ~下水道創設時の大転換~

最終更新日:2022年04月01日

 下水道には、汚水と雨水を1つの管きょで排水する合流式と、それぞれ別の管きょで排水する分流式があります。
 
 創設工事にあたって、名古屋市が内務省へ提出した下水道布設の認可申請は、明治41(1908)年2月に認可されましたが、このときの下水道布設計画は、上田敏郎水道技師長の調査結果に基づき、雨水は在来の溝きょを利用し、汚水のみ新たに管きょを布設する分流式によるものでした。これは、上田水道技師長の調査に先立って内務省衛生局雇工師であったW. K. バルトンが実施した下水道工事についての調査結果を踏襲するもので、(1)下水を放流すべき海浜に遠い、(2)雨水については従来の溝きょを整備し、不足分のみ新築すれば足りる、(3)多量の雨水を流下するには汚水管の数十倍の大きさの排水管を要するため経費がかかる、との理由からでした。

 しかし、計画の実施設計を命じられた茂庭忠次郎技師は、市の地勢、街路、溝きょ等について詳細な調査を行ったうえで、著しく発展しつつある市勢の現状を考慮すると、既存の溝きょをもって雨水を排水することは非常に困難であると判断し、計画を根本から改め、合流式によって下水を布設することとしました。

 ところが、計画の変更には、およそ5割増しとなる予算の大幅な増加が見込まれるなどの事情から、変更についての市の方針がなかなか決まりませんでした。また、明治42(1909)年春からの国との協議では、増額分に対しての補助金が容易に認められず、補助金の交付を含む計画変更の認可申請に向けての協議は、加藤重三郎市長らによる国との直談判によりようやく調いました。

 合流式への計画変更が正式に認可されるのは、明治40年に編入した熱田町と築地を対象とする第1次拡張計画の認可とあわせ、明治44(1911)年3月31日のこととなります。

W.K.バルトン
W.K.バルトン

上田敏郎
上田 敏郎

茂庭忠次郎
茂庭 忠次郎