明治~大正(上下水道)
最終更新日:2022年05月02日
明治22(1889)年10月 名古屋に市制施行
市制施行当時の市庁舎
明治4(1871)年に行われた廃藩置県により名古屋県(翌5年に愛知県と改称)を置き、管内を6大区に分けて名古屋と熱田を第1大区としました。
その後、明治11(1878)年、名古屋区として初めて独立行政区となり、明治22年10月1日の市制施行で、名古屋市は人口約15万7,000人、面積約13.34平方キロメートルでスタートをしました。
最初の名古屋市役所は栄町角に設置されましたが、明治40(1907)年10月に全焼し、明治42(1909)年10月、新栄町に新たに設置されました。
明治26(1893)年10月 W.K.バルトン氏に上下水道工事の調査を委嘱
W.K.バルトン
明治20(1887)年5月帝国大学(現在の東京大学)工科大学衛生工学講座教師としてイギリスから来日し、明治21(1888)年1月内務省衛生局雇工師を兼ねることとなりました。
わが国の上下水道および土木工事の企画経営に尽力し、大阪、神戸、広島、岡山、下関、仙台、名古屋、福岡、門司など主要都市の上下水道工事の計画調査や設計指導を行い、わが国の上下水道の普及の基礎を築きました。
バルトン氏が作成した、名古屋市の上下水道計画は、当時の財政上の都合により実現には至りませんでした。
明治32(1899)年11月 上田敏郎氏(当時、愛知県技師。のちの名古屋市水道技師長)に「緊急下水道計画」の作成を委嘱
明治35(1902)年8月 上田敏郎氏に上水道布設調査(水道計画の作成)を委嘱
上田 敏郎
元治元(1864)年江戸に生まれ、明治19(1886)年帝国大学工科大学土木工学科卒業、静岡県、愛知県技師等を経て、明治40年5月名古屋市水道技師専任、明治42(1909)年水道技師長となりました。
本市の上下水道創設工事にかかる調査と設計を実施し、水道布設の報告書では、バルトン氏が水源を「入鹿池(愛知県犬山市)」に求めていたことに対し、「木曽川」の水を引水する案を提出しました。
明治39(1906)年6月 上下水道建設を市会で議決
明治41(1908)年2月 上下水道布設が内務大臣から認可
下水道布設の認可書
上下水道の創設工事は、バルトン氏の報告書を元に、上田敏郎氏によるさらなる調査を経て、上下水道布設に関する議案として市会に提出されたことに始まります。
その後、日露戦争勃発による市会審議の中断など紆余曲折を経て、内務大臣へ「上水道布設認可稟請書」と「下水道布設認可稟請書」を提出し、認可を受けることで創設工事の実現へ向かって動き出していきます。
上の写真は、明治41年2月19日の内務大臣からの下水道布設にかかる認可書であり、本市下水道建設が第一歩を踏み出した証となるものです。
明治41(1908)年2月 水道布設事務所を設置
次のあゆみへは下のリンクから移動できます。
大正(下水道)
大正(水道)
市制施行当時の市庁舎
明治4(1871)年に行われた廃藩置県により名古屋県(翌5年に愛知県と改称)を置き、管内を6大区に分けて名古屋と熱田を第1大区としました。
その後、明治11(1878)年、名古屋区として初めて独立行政区となり、明治22年10月1日の市制施行で、名古屋市は人口約15万7,000人、面積約13.34平方キロメートルでスタートをしました。
最初の名古屋市役所は栄町角に設置されましたが、明治40(1907)年10月に全焼し、明治42(1909)年10月、新栄町に新たに設置されました。
明治26(1893)年10月 W.K.バルトン氏に上下水道工事の調査を委嘱
W.K.バルトン
明治20(1887)年5月帝国大学(現在の東京大学)工科大学衛生工学講座教師としてイギリスから来日し、明治21(1888)年1月内務省衛生局雇工師を兼ねることとなりました。
わが国の上下水道および土木工事の企画経営に尽力し、大阪、神戸、広島、岡山、下関、仙台、名古屋、福岡、門司など主要都市の上下水道工事の計画調査や設計指導を行い、わが国の上下水道の普及の基礎を築きました。
バルトン氏が作成した、名古屋市の上下水道計画は、当時の財政上の都合により実現には至りませんでした。
明治32(1899)年11月 上田敏郎氏(当時、愛知県技師。のちの名古屋市水道技師長)に「緊急下水道計画」の作成を委嘱
明治35(1902)年8月 上田敏郎氏に上水道布設調査(水道計画の作成)を委嘱
上田 敏郎
元治元(1864)年江戸に生まれ、明治19(1886)年帝国大学工科大学土木工学科卒業、静岡県、愛知県技師等を経て、明治40年5月名古屋市水道技師専任、明治42(1909)年水道技師長となりました。
本市の上下水道創設工事にかかる調査と設計を実施し、水道布設の報告書では、バルトン氏が水源を「入鹿池(愛知県犬山市)」に求めていたことに対し、「木曽川」の水を引水する案を提出しました。
明治39(1906)年6月 上下水道建設を市会で議決
明治41(1908)年2月 上下水道布設が内務大臣から認可
下水道布設の認可書
上下水道の創設工事は、バルトン氏の報告書を元に、上田敏郎氏によるさらなる調査を経て、上下水道布設に関する議案として市会に提出されたことに始まります。
その後、日露戦争勃発による市会審議の中断など紆余曲折を経て、内務大臣へ「上水道布設認可稟請書」と「下水道布設認可稟請書」を提出し、認可を受けることで創設工事の実現へ向かって動き出していきます。
上の写真は、明治41年2月19日の内務大臣からの下水道布設にかかる認可書であり、本市下水道建設が第一歩を踏み出した証となるものです。
明治41(1908)年2月 水道布設事務所を設置
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大正(下水道)
大正(水道)