なごやの水道 歴史探検vol.4~水源を木曽川に、近代水道布設へ~
最終更新日:2024年03月14日
最初の水道布設計画は財政上の都合により延期されていましたが、市街の発展は著しく、水道の整備は放置できない状態になってきたため、明治35(1902)年8月、愛知県技師の上田敏郎氏を嘱託技師に任じて上水道布設調査を依頼しました。 |
上田 敏郎
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上田氏は、給水人口60万人(のちの実施設計で100万人に修正)と想定し、入鹿池を水源とするバルトン氏の案を排して、水量は豊富で水質は良質な木曽川を水源としました。 |
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丹羽郡犬山町(現犬山市)地内から木曽川の水を引用して自然流下で導水し、愛知郡鍋屋上野村(現千種区宮の腰町)地内で浄水した後、ポンプで愛知郡東山村大字田代(現千種区田代町)の山頂に圧送のうえ配水するという「上水道布設調査報告書」を明治36(1903)年12月に市長に提出しました。 |
木曽川 犬山城下取水口
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市長はこの調査報告に基づき、上水道布設の実施を市会に諮問、日露戦争の勃発により一時棚上げとなりましたが、明治39(1906)年6月、5か年で総工事費592万円(当時の市の総予算の約6倍)の空前の大事業は、賛否両論飛び交う審議を経て、原案どおり可決されました。
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