水道布設までの経過
最終更新日:2024年12月20日
名古屋市では、明治26(1893)年に上下水道布設のための調査を内務省衛生局雇工師であったW.K.バルトンに嘱託しました。バルトンは現地調査のうえ、明治27(1894)年6月に入鹿池を水源とする報告書を提出しましたが、財政的な理由などで計画は実行されませんでした。
その後、明治35(1902)年に、愛知県技師で工学士の上田敏郎を嘱託技師に任じて調査を依頼しました。上田は、木曽川の水を引用して自然流下で導水し、愛知郡鍋屋上野村地内(現在の千種区宮の腰町)で浄水したのち、ポンプで同郡東山村大字田代(現在の千種区田代町)の山頂に圧送のうえ配水するという報告書を明治36(1903)年に提出しました。
この調査結果に基づき、当時の青山朗市長が上下水道布設の実施を市会に諮問しましたが、まもなく日露戦争が勃発したため一時棚上げの形となりました。日露戦争後の明治39(1906)年の市会にて議論を重ねたのち上田の案が議決され、明治40(1907)年度から5か年の継続事業として水道の布設が施工されることとなりました。(水道布設の認可については、豆知識「名古屋市上下水道110周年の起算点」もご覧ください。)
二人の案の最大の違いとして、バルトンが名古屋市の将来人口を27万人と予想して、その水源を入鹿池とする案をまとめたのに対して、上田は将来人口を60万人と予想し、水源を遠く木曽川とする案をまとめたことがあります。
本市の人口はその後の発展と市域の拡大に伴いその後も増加し続け、昭和の初期には100万人を突破し、令和2(2020)年度末時点で約232万人となりました。水量が豊富で水質が良い木曽川を水源とした先人の先見性が、現在まで続く「断水のないなごやの水道」という伝統を支えています。
W.K.バルトン(William Kinninmond Burton)氏
上田 敏郎氏