バルトン再訪 バルトンと濃尾大震災の撮影
最終更新日:2022年04月01日
「近代日本上下水道の父」といわれ、本市の上下水道の最初の設計者でもある英国人W.K.バルトンについては、「なごや上下水道110周年のあゆみ」の欄で紹介しています。
帝国大学の教師であり内務省衛生局雇工師でもあった彼が名古屋市の委嘱を受けて、上下水道の調査に来名したのは、明治26(1893)年のことで、翌年、「名古屋市下水道工事設計案報告書」と「名古屋市給水工事ニ関スル意見書」を提出しましたが、それより、2年前にもこの地方を訪れています。来訪の目的は、明治24(1891)年10月28日に発生した「濃尾大震災」の調査でした。「日本地震学の父」といわれるジョン・ミルン(John Milne W.K.バルトンと同じ英国人、帝大教師。1850~1913)とともに被災した各地を訪れ、貴重な震災記録を撮影しました。
「工学会誌」第121号(明治25年1月)には、ミルン教授の「地震ニ就テ」の演説が掲載されていますが、そこでは、演説に先立ってバルトン教授撮影になる幻燈が写され、「激震ノ為メニ生シタル破壊ノ甚シキ有様ヲ示スモノ」として名古屋の郵便局、一帯の建築が破壊され、釣鐘ひとつが寺院があったことを示している大垣、負傷者を治療する病院の有様、堤防の破壊とそれによる長良川鉄橋の破壊、震源地根尾谷の断層上で二分された民家の写真等に、聴衆は「ソノ惨状ヲ目前ニ観ルノ想ヒヲナシバルトン氏ノ説明ニ耳を傾ケ」たと記されています。
濃尾大震災の撮影記録は、ミルン・バルトン共著『THE GREAT EARTHQUAKE OF JAPAN 1891』(以下、EQJ 1891と略記)として、出版されました。(鶴舞中央図書館で閲覧することができます。)
『THE GREAT EARTHQUAKE OF JAPAN 1891』表紙(鶴舞中央図書館蔵)
W.K.バルトンは、土木・衛生工学の技師であるとともに、卓越した撮影技術をもつ写真家であり、濃尾大震災の記録の他に磐梯山の噴火記録、東京の風物や相撲、庶民の生活ぶりなど、明治中期の日本を撮影し欧米に紹介しました。写真技術の普及のため、『写真新書』などの啓蒙書も著しています。また、バルトンの愛娘「多満」さんの写真は日本橋の写真館に飾られ、評判になったということです。
バルトンの愛娘「多満」さん(『W.K.バルトン生誕150年記念誌』より)
濃尾震災で破壊された熱田町尾張紡績(EQJ 1891より)
長良川鉄橋(EQJ 1891より)
帝国大学の教師であり内務省衛生局雇工師でもあった彼が名古屋市の委嘱を受けて、上下水道の調査に来名したのは、明治26(1893)年のことで、翌年、「名古屋市下水道工事設計案報告書」と「名古屋市給水工事ニ関スル意見書」を提出しましたが、それより、2年前にもこの地方を訪れています。来訪の目的は、明治24(1891)年10月28日に発生した「濃尾大震災」の調査でした。「日本地震学の父」といわれるジョン・ミルン(John Milne W.K.バルトンと同じ英国人、帝大教師。1850~1913)とともに被災した各地を訪れ、貴重な震災記録を撮影しました。
「工学会誌」第121号(明治25年1月)には、ミルン教授の「地震ニ就テ」の演説が掲載されていますが、そこでは、演説に先立ってバルトン教授撮影になる幻燈が写され、「激震ノ為メニ生シタル破壊ノ甚シキ有様ヲ示スモノ」として名古屋の郵便局、一帯の建築が破壊され、釣鐘ひとつが寺院があったことを示している大垣、負傷者を治療する病院の有様、堤防の破壊とそれによる長良川鉄橋の破壊、震源地根尾谷の断層上で二分された民家の写真等に、聴衆は「ソノ惨状ヲ目前ニ観ルノ想ヒヲナシバルトン氏ノ説明ニ耳を傾ケ」たと記されています。
濃尾大震災の撮影記録は、ミルン・バルトン共著『THE GREAT EARTHQUAKE OF JAPAN 1891』(以下、EQJ 1891と略記)として、出版されました。(鶴舞中央図書館で閲覧することができます。)
『THE GREAT EARTHQUAKE OF JAPAN 1891』表紙(鶴舞中央図書館蔵)
W.K.バルトンは、土木・衛生工学の技師であるとともに、卓越した撮影技術をもつ写真家であり、濃尾大震災の記録の他に磐梯山の噴火記録、東京の風物や相撲、庶民の生活ぶりなど、明治中期の日本を撮影し欧米に紹介しました。写真技術の普及のため、『写真新書』などの啓蒙書も著しています。また、バルトンの愛娘「多満」さんの写真は日本橋の写真館に飾られ、評判になったということです。
バルトンの愛娘「多満」さん(『W.K.バルトン生誕150年記念誌』より)
濃尾震災で破壊された熱田町尾張紡績(EQJ 1891より)
長良川鉄橋(EQJ 1891より)